鉛筆 オリンピック・パラリンピックの学習を通して 

オリンピック・パラリンピックの学習を通して 

5年生男子

僕は一年生の時から栄小学校でオリンピックやパラリンピックの学習をしてきました。 

東京2020五輪音頭,ブラジル選手との交流,射撃体験,車椅子バスケットボール体験などたくさんの五輪にまつわる行事をしてきました。そして2020年がとても楽しみでした。

しかし,コロナウイルスの影響でオリンピックパラリンピックが1年延期。さらに1都3県では無観客となり家族で持っていたサッカーのチケットも手放すことになりました。そしてそのままテレビの前で約5年間かけて学習した,オリンピックが終わり,一生に一度のチャンスを逃してしまった気がしてとても悲しくなりました。

しかし,まだ東京2020は終わっていませんでした。なんとパラリンピックが残っていたのです。「まだチャンスはある」と思っていましたが,結局無観客の開催となり本当に2020は終わったと思いました。それから数日後,学校からなんとパラリンピック観戦の案内が来たのです。僕は無観客ということで学校観戦は考えていませんでした。なのでとても嬉しくて絶対に見に行きたいと強く思いました。

当日大会関係者や警察の方々のおかげで無事競技を見ることができました。そこでまず思った事があります。それは,「障がいがあるのに健常者の人と変わらないくらい上手だなあ」です。全員が当たり前のように10点を出していて「凄い」と感じました。しかし僕が凄いと思ったのは障がい者だからです。健常者だったらこの気持ちは現れないと思いました。

その後,テレビを見ていると障がいのある方がこんな話をしていました。「障がい者だからという理由で感動されるのは偏見なのではないか。」最初に聞いたときは全く意味がわかりませんでした。「なんで自分の事を褒めてくれたり、感動してくれてもそれが偏見になってしまうのだろうか。」それが謎で,よく意味がわかりませんでした。しかしよく考えてみるとこんな考えが浮かび上がりました。「障がいがある人も同じ人間なのだから健常者とは違う理由で感動されても,結局は障がいのある人ない人で分けられているからそれは,偏見につながっているということなのではないか」と感じて,今までの考え方は障がいのある方に逆に失礼だということに気がついて,これからは,「障がい者だから凄い」じゃなくて「人間として凄い」と言えるようになりたいと思いました。 

テレビの前で全力で応援した「オリンピック」障がいのある人への考え方について知った「パラリンピック」どちらも一生の宝物になりそうです。

ハート学校だより3月号に一部を紹介している作文の全文になります。